はっきり言って個人の日記レベル 文脈の話

 

 

いつからゲームはつまらなくなったのか

http://sabatora02.hatenablog.com/entry/2014/01/18/212624

 

この記事は、「自分にとって」なぜゲームはつまらなくなったのか、という自己省察

を基に書かれている。「自分はどうしてこうなったのか」という自己を研究する営み

である。誰かを罵ったり、誰かを責めているわけでもない。ところがこういった記事

に対して、感情的な反応を示す人間が後を絶たない。「はっきり言って個人の日記レ

ベル」「老害おっさん乙」「卑怯者の戯れ言」などのコメントが目立つ。

 

私は驚愕した。「私はこう思う。私の内部はこうなっています。」という主張に対し

て、ああいったコメントを返すということは考えられない。「私はこうです」と言っ

ている人間に対して罵声を浴びせるということは、その人間の内心を侮辱したり操作

しようとしたりしているのと同じである。その人自身を否定してるのと同じだ。

 

体調わる子やはてな女子の女子会が叩かれたのには正当性がある。彼女らは「こうい

う人間ってありえないw そんでアタシはさ~」という他者disから始まる話法であっ

たために、読者を不快にさせ、猛烈なバッシングを受けた。相対的な幸福や価値観の

話ばかりをして、絶対的な主張が見られなかった。ところが件のブログなどは、何か

をdisっている要素など一切ない。一心に自分の内面に目を向け、自分の責任として物

事を考えている。誠実な自己省察である。そういったものに対して「反撃」にも近い

ような反応を示す人間たちはおかしい。そのおかしな反応に違和感を唱える人もい

る。

 

civiliza

自分自身にとってゲームがつまらなくなった理由を、徹頭徹尾ゲーム側ではなく自分の変化にあると書いてるにもかかわらず、タイトルに「自分にとって」を付けなかっただけでご覧の有様だよ 2014/01/19

 

この方の言う通りである。しっかりとあの記事を読めば、彼がただ自分の内面につい

ての話をしているだけであり、批判も反論も必要ない穏やかな文章であるとわかる

はずだ。もし読者が何か意見をするとすれば、「こうすればゲームが楽しくなるか

も」や、「俺もその気持ちわかる。どうしたら感性をもとに戻せるんだろうな」や、

「これからの人類にとって『新しい体験』ってなんなんだろうな」というような、ア

ドバイスや、彼の問題意識を共有してみせることや、彼の文章から話を広げることく

らいで、「反論」などは場違いであることはすぐにわかるはずだ。反論も何も、あの

記事は非常に自己完結的であるからだ。

 

はてなーは本文を読んでいないのだろうか。タイトルだけで文章の内容まで把握して

しまうのか?そんなエスパーがいるわけがない。believemeimaliarは、「タイトルだけ

読んでそれっぽいコメントしてるだけ」と公言していたが、(あの人は特殊な人だか

ら良いとして)彼以外のはてなーもそうなのだろうか?

 

ここからは文脈の話になる。昨日の星井七億の牛丼炎上事件もそうだが、なぜ健常者

は文脈を一切無視するのか。なぜ健康な一般人が文脈をわからずに、妖怪や原住民の

方が文脈を理解しているのか。星井なども、文脈がメチャクチャな文章を投下してお

いて、いざ批判されると、「俺の脳内ではこうなってるんですけど!」という反論に

もなっていないような反論を繰り出すのであるが、だったらその脳内の情報を最初か

ら文章に入れておけばいいのである。にも関わらず、そういう手間を放棄して、いい

加減な情報不足の文章を公開しては毎回毎回他者に誤解されるのだ。星井だけではな

い。昨今の新参ブロガーはみんなそうである。

 

文脈を読み取る能力の無い読者も増えた。件のゲーム記事もそうだが、たとえ流し読

みをしたとしても、あの記事は誰かに向かって強い主張をする攻撃的な記事でないこ

とはわかるはずだ。ああいった記事を読んで、まるで自分が攻撃をされたかのような

ヒステリックな反応を示す読者は少しおかしい。可能性があるとすれば、たとえば

ゲームの製作を仕事としている人間があの記事を読めば、自分のやり方や信念が否定

されたと感じてしまうのも理解できるが、果たしてあのブックマークコメント欄の中

にゲーム製作者が何人いるのだろうか。

 

「はっきり言って個人の日記レベル」という発言が年始に話題となったが、これは今

年度を象徴するような言葉になるような気がしてならない。我々はますます、気軽な

気持ちでブログを書けなくなる。文章に対して誠実な人間はどんどん萎縮して行き、

一方では文章に対して情熱も信念も無い人間の、情報不足でデリカシーに欠けた文章

だけがネットに氾濫していく。個人の日記レベルで何が悪いのか。そこに「心」が

詰まっていればどんなブログであろうと価値はある。価値が無いのは「心」を宿さな

いうるさいだけのタレントブロガーのブログだけだ。他者disの相対的価値観ブログば

かりが蔓延し、自己省察的な絶対的価値観のブログが減っていくのなら、妖怪は死滅

するしかない。

 

宗教とインターネットについてダラダラ考えてみる。

http://anond.hatelabo.jp/20140117034425

 

2ちゃんねるも超えられない、便所の落書きすらも超えられない一般人たちが、その貧

弱な心で一体何をしようというのか。友達の輪を作りたいのか?商売がしたいのか?

私はインターネットでそんなものは見たくない。私はインターネットで人の心が見た

いのだ。だから、勇気を持って心を開示をしてくれた人に対して、それを萎縮させよ

うと動く人間には我慢ならない。公の場で「私はこうだ」という自己主張がされたの

なら、まずは黙って耳を傾けるべきだ。賛否両論はその後だ。「私はこうだ」と主張

する姿勢に反感を持つ健常者など言語道断である。「ドヤ顔」「ミサワ」などのワー

ドを駆使して必死に他者の枝を切ろうとするが、そんなもの私は許さない。インター

ネットはドヤ顔をする場である。

 

いよいよ妖怪の絶滅もカウントダウンに入ってきた感がある。インターネットはどう

なっていくのだろうか。個人の日記すら許されなくなるような世界になるのだろう

か。これからどうすればいいのか、私にはわからない。私がインターネットに願うこ

とは、昔の自由さと、今の綺麗さが混合した世界になってくれることである。我々に

はそれができるはずだが、どうすればいいかわからない。