カースト思想 まとめ

 

 

http://anond.hatelabo.jp/20140130103317

 

良い機会なので、私が常日頃から疑問を持っているカースト思想について述べる。いわく、この世界にはカーストがあるのだとある種の人は言う。ピラミッド型のヒエラルキーがあり、誰もがそのピラミッドの内部に属しているのだと。私はそういった思想を高校卒業後に知り、大変驚いたものだし、そんなものがあるのだとすれば、私は最底辺に位置する人間なのだろうなぁ、とも思ったものだ。

 

カースト思想を知ってからというもの、そのカーストに対する疑問が私の頭を悩ませた。まず、そのカーストというものは一体誰が作り出したのか。誰がカースト考え、誰が人々にそれを公布しているのかという疑問だ。私の高校にはカーストなど無かった。たとえば、スクールカーストの本場アメリカでは、イケメンアメフト部くんが文化系メガネくんを、カースト差の力量を背景にいじめる、という話を聞いたことがあるし、アメリカドラマを見てもそういう光景がたまにある。

 

しかし、たとえば私の高校でイケメンサッカー部の男の子が、「俺はカースト上位なんだぜ」とか言って、根暗な読書少年の私だったり、アニメやゲームについて語っているオタク少年たちをいじめたりすれば、どうなるであろうか。

 

それは間違いなくダサい。「俺はカッコいいから」などと悦に入って、自分より下位(?)の者をいじめるその姿は、私の高校では間違いなくみんなから「ダサい」と評価される行動である。だから、私の高校は決して頭の良い高校ではなかったが、スポーツ部の人間だったり、派手な男の子たちであったりが、大人しい弱い者をいじめるということは無かった。

 

だから私は大学生になってから、ネットで「スクールカースト」という概念を知ったときに、大層驚いたのである。そして、そのカースト思想は、間違いなく間違っているということも私は感じた。

 

カースト思想についての疑問はまだある。それは、「一体何を基準にカーストを作るのか」ということである。人を構成する要素は様々にある。人の魅力というものは様々である。人のある一面だけを見て、その人の全体を評価するのは間違いである。あまりにも見落としが多いからだ。たとえば私の妹が、「スーパーで1人で買い物をしているお爺さんを見るとかわいそうで泣きそうになる」という発言をしたとき、私は怒った。それは失礼であると。もしそのお爺さんがその時たまたま1人で買い物をしているだけであって、家に帰ったら愛する妻や孫に囲まれていたらどうするのだと。そのよく知りもしないお爺さんの一瞬だけを切り取って同情(値踏み)しているお前の方がかわいそうではないか、と。

 

ニュー速(旧)でもそのような言説はあった。「スーパーの値引き弁当を買っているサラリーマンの人生は悲惨だ。独身なんだろう」という偏見だ。しかし私の父はスーパーの値引き弁当を買っている。火曜には私の母のために寿司を買って帰って来る。私の父は独身でもないし、悲惨な人生を送っているわけでもない。

 

「30代の男と年老いた女が一緒に買い物をしていると哀れだ」という言説もあった。それは、「ニートと年老いた母の組み合わせに違いない」というニュー速民の偏見から来るものだ。しかし、全ての30代の男と母親っぽい女性の組み合わせの全てが「ニートと母親」という組み合わせなわけがないし、久しぶりに帰郷した30代の男が、たまには妻と子どものことを忘れて、自身の母と親子水入らずの時間を過ごしているのだけなのかもしれない。

 

私はそういったニュー速系の偏見の数々に疑問を持たざるを得ない。彼らはなぜ人を見ては、ネガティブな方向にばかり想像力を伸ばすのか。私などはスーパーで買い物をしても、そのとき周囲に居る人たち1人1人の中に幸せな人生を見出す。この人たちは誰かを愛し、誰かに愛され、私的領域に大切なものを抱えているのだ。そう考えると、この人たちと私の間には何も隔たりが無くなる。私たちは、何か大切なものを抱えている者同士なのだ。私たちはその一点において友人なのだ。共通点はそれだけで十分だ。私たちは友人なのだ。

 

カースト思想というものは、そういった「共通点」を分断するものだ。ある人の「一面」を見ただけでその人を裁判し、「お前は何位だ」と決め付ける。「お前は○○だからカワイソウ」「お前は○○だから悲惨だ」といって、カーストの下位の方へ下位の方へと追いやろうとする。何故か。そうすれば自分のランキングが上がるらしいからである。ニュー速ではそのような言説がよくあった。誰かを炎上させて人生を終了させれば、そいつが自分より下の地位に来るので、自分の世界ランキングが上がる、というようなことを言うのだ。私には理解不能だ。

 

たとえ「ランキング」や「カースト」というものがあったとしても、それは一種類ではないはずだ。「足の速さ」「人への優しさ」「ラクロスの上手さ」「顔の美麗さ」「ファッションセンス」「喋りの上手さ」「手先の起用さ」「喧嘩の強さ」「映画の知識」など、様々な「ランキング」が存在するはずである。たとえば私が「性戯の上手さ」で世界一だったとしても、「快便さ」で世界最低クラスだったらどうするのだ。私は、快便さ世界ランキング一位の人間に嫉妬をするのか?性戯ランキングで世界最低クラスでも快便ランキングでは中位を保っている人間は私を羨ましがるのか?

 

そんなわけがない。我々にはそれぞれ長所と短所、持つものと持たざるものがある。それらの様々な組み合わせが、人を構成している。中村俊輔はフィジカルが無かったが、その代わりに自身の強みであるフリーキックや、それ以外の動きを磨きに磨いた。それは彼がスコットランドに渡ったとき、中村と同じように現役時代フィジカルに恵まれたなかったゴードン・ストラカン監督と出合ったことで、さらに花開く。ストラカンは、フィジカルに恵まれないもののその他の類稀なるセンスを持つ中村に共感を寄せ重宝し、中村もそこで自身の欧州キャリアの最高潮を迎えたのだ。「周囲が言うとおり、中村はタックルができない。ヘディングもできない。それがどうした。彼は天才だ。」とはストラカンの弁である。

http://www.youtube.com/watch?v=5DIRe9-OgT0

http://www.youtube.com/watch?v=bZsZHPsbyQE

http://www.youtube.com/watch?v=2ilOSbu1Fjw

 

しかしその中村も、岡田ジャパンでは機能しなかった。そのフィジカルの無さ、守備として戦力にならない彼のプレイスタイルは、岡田ジャパンの枷となった。岡田ジャパンの戦術には中村は必要なかったのだ。

 

このように、あるスポーツ選手1人を例に挙げてみても、個人の要素には長所と短所が様々に入り乱れ、それがまた人生の中で出会う人々とも様々に絡み合い、たくさんの様相を見せる。人や、人の人生というものは決して一面だけを見て判断できるものではない。性戯ランキング世界一位の私は世界中の男から羨望の眼差しで見つめられるが、一方で私は酷い便秘と痔に悩まされている。そして女心もわからない。私は女性たちに忌み嫌われながら大腸ガンで30歳の若さで死ぬ運命なのだ。

 

カーストはある」と言い張る人がいる。その人の話を私は一応聞いてみるが、なんとも他者の捉え方が幼稚であると感じる。「あいつは金持ちだから幸せなんだよ」とか、「あいつには彼女がいないから不幸w」などと、「AだからB」という世界の捉え方しかできていない。それはあまりにも単純である。

 

結局、人間の才能は幼いうちに何をしてたかで決まるという事実

http://rrt.hateblo.jp/entry/2014/01/12/000604

 

上の記事などもそうだ。「天才以外は不幸」「幼いうちに鍛錬しなきゃオワリ」などと言っているが、スポーツを見ていればそんなことは嘘であるとすぐにわかる。スポーツは、そして世界はそんなに器が狭くない。世界の懐は深いのだ。

 

だがカースト肯定論者は、すぐに世界を白黒で決める。オールオアナッシングだ。「就職できなければ終わり」「彼女ができなければ終わり」「学歴が低ければ終わり」という、自分で勝手に決めた枠組みの中で一喜一憂し、優劣を決める。それは間違いである。人の「不幸」にはたくさんの種類があるし、また人の「幸せ」にもたくさんの種類がある。一面だけで物事を判断し、「生か死か」という二択にすぐに飛びつくのは愚か者のやることだ。

 

このように、世界を単純化して捉えるカースト論者たち、もっと言えば健常者たち(2005年以降にネットに参入し、現実世界の価値観をネットに持ち込んだ者たち)

は、世界観のみに留まらず、自他の関係性についても極端に単純化して捉えている。ここでこの記事が出てくる。

http://anond.hatelabo.jp/20140130103317

 

次は、カースト論者たちがなぜ上の記事のような誤解をしているかについて考察する。

 

 

続き → http://masudamaster.hatenablog.jp/entry/2014/01/31/160604