カースト思想 まとめ2

 

 

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同郷というだけの薄っすい共通項でライドオンする人って、誇りに思えるモノを自前で持っていないからそうしてるのかな。よくわからない。他人の業績で自己愛を補填してるつもりなの? それ、素に戻った瞬間惨めすぎね?

 

 

他人の業績で自己愛を補填できるわけがない。「スポーツ選手の活躍を自分の手柄にしようとしてるんだろ!」などとスポーツ観戦者に見当違いの邪推を繰り出す人間たちには呆れ果てるしかない。これが健常者なのである。自他の区別がついていない。

 

「お前たちはスポーツ選手の功績にタダ乗りしようとしている!」と主張するということは、彼らは、「誰かが誰かの功績にタダ乗りすること」が可能であると考えているということだ。これがまず理解不能である。私たち観戦者は、競技者の功績にタダ乗りなどできないから、心を込めて観戦するのである。応援するのである。

 

3月のライオン」を読んで、棋士たちに感情移入し応援する読者たちは、棋士たちの功績にタダ乗りしようという魂胆でそれをやっていると?そんな馬鹿な話は無い。3次元に生きる読者たちと2次元に生きる作中の棋士たちは絶対に交わらない。だからこそ読者は応援するのである。棋士たちの心を考えるのである。

 

その営みの最中には、読者たち自身の人生に誇りがあるかどうかなどは関係ない。私たちは何かを観戦するとき・応援するときに、自身の人生を離れる。自分のことを一切忘れて、自分を真っ白にして、何かを熱狂的に見ることがある。そこには自己愛など介在しない。介在したら対象をしっかり見られないではないか。

 

そして観戦・応援が終わった後は、私たちは私たちの人生に戻る。しかし「素に戻った瞬間惨め」なんていうことはまず無い。共感し応援していた対象が、勝つにしろ負けるにしろ、それが終われば今度は私たちの番である。私たちが主役だ。そこで「惨め」になるはずなんて無い。私たちは応援・観戦を通じて、エネルギーを貰っているのだから。

 

temtex 日本人が出した成果を、なにより日本人が賞賛しないでどうする。評価して喜んでさあ自分はどうしよう、だろ?

 

 

健常者はどうもこの営みがわからないようである。私が彼らを見て思うのは、どうも「自分」と「競技者」の区別がついていないということである。だから「タダ乗りできる」などという発想に行き着くのだ。「自分」と「競技者」という繋がらないはずのものを繋げてしまっている。これが次にカースト思想に繋がる。

 

カーストがなぜ生まれるのかというと、それは「みんな平等」という精神から生まれるものだと私は考えている。個人差を認めないがゆえにカーストは生まれるのではないか。個人差を認めないということは、「私はその気になればアイツになれる」という精神を産むことにもなる。個人差が無い世界がもしあるのなら、誰だってスーパーマンになれる。ところがこの間違いが憎悪を産むことになる。「私はアイツになれる」と思い込んだところで、人間には個人差があるので、「私」はいつまでも「アイツ」になれない。だから「私」は「私はアイツになれるはずなのに未だになれない」というストレスを常に抱え込むことになる。そしてしまいには「アイツ」を攻撃し始めるのだ。」

 

 

キョロ充」という言葉がある。これは健常者が作った健常者用語である。太古のインターネットにそんな言葉は無かった。これはカースト大好きな健常者が、他者を意地悪くカテゴライズするために作ったルサンチマン満載の言葉であり、こんな言葉は実態が伴わない愚かなワードである。「キョロ充」と「リア充」の間に本質的な違いなど無いのだから。

 

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」という作品がある。この作品は「内向的男子あるある」作品であり、非常に出来が良い。ただし、内向的な男子は、もこっちみたいにしょっちゅう心中でクラスメートを罵っているわけではない。

 

わたモテを見るとすぐわかるが、もこっちの世界には「キョロ充」なるものが存在しない。なぜなら、もこっちにとっては「自分以外は美男美女」だからである。リア充とキョロ充の違いなんざどうでもいいのである。「自分以外はみなリア充」である。

 

その気持ちはとてもよくわかる。「自分1人vsその他大勢」という感覚で世界を捉えているので、カーストうんぬんまで頭が回らないのである。「こいつはクラス3位でこいつはクラス5位だな・・・」なんて勘定をしてる余裕は無いのである。もこっちの見る世界のモブがみんな美麗なのもそのためである。作品としてはもこっちをブス扱いしなければならないから相対的にモブを美麗にしたという事情もあるだろうが、それがとても「内向的男子あるある」にマッチしている。私たちはルサンチマンを抱かないのである。

 

となれば、「キョロ充」なるレッテルは、ルサンチマンを抱えた「ワナビー」が生み出した言葉であるということになる。

 

ワナビーとはつまり「私はアイツになれる」と考える人間のことである。個人差を認めず、カーストを常に気にし、下克上(タダ乗り)を虎視眈々と狙っている人間のことである。そういった人間がピラミッドをより細分化して、カースト階級の種類をさらに増やし、優越感ゲームのさらなる発展にと考えた挙げ句の案が「キョロ充」なのである。

 

ここまで言えばわかるであろう。スポーツ観戦に熱中する人間や、少しの共通点のみを頼りに他者を理解・賞賛していく人間を、「他人の業績で自己愛を補填している」など邪推して悪し様に言う人間の正体が。彼らが健常者なのである。カースト思想を保有し、自分は常に誰かと何かしら繋がっていると妄想し、他者に対して虎視眈々と下克上を狙う。「他人の業績で自己愛を補填」できると思い込み、自分以外の他人もそう思っているのだと誤解している。

 

無礼な話である。サッカーのサポーターたちは、サッカーチームやサッカー選手の手柄を横取りするためにスタジアムに行っているわけではない。私たちは、選手の業績で自分を慰撫するためにソチ五輪を見るわけではない。だが、そういった邪悪な意識を持った健常者は、その本質を露呈するのを恐れるあまり、他者にコミットしないのだ。何かに熱中することを恐れているのだ。

 

自分だけがそんな意識を持ってるだけならいいものを、それを他者が持っているとまで勘違いし、他者を悪し様に言うとは言語道断である。人が郷土のものに特別な感情を抱くのは当然のことである。健常者がその感情を「理解できない」と言うことまでは理解できるが、その感情を「卑しい惨めな代償行為」と言うのなら、私は全てのスポーツ観戦者に代わって反論するしかない。他人の功績にタダ乗りできると思い込んでいるあなたの方が卑しいのだ。全ての競技者に対してもリスペクトを欠いている。

 

 

 

スポーツを強烈に否定することとカースト思想は密接に結びついているというのが私の自論だ。これがまたアメリカの事情について話すことになれば事情は違っているのだろうが、少なくとも日本ではこのような図式があるのではないか、というのが私の考えである。いや、スポーツを強烈に肯定することとスポーツを強烈に否定することには親和性があるのかもしれない。これについてもまた考えていきたいと思っている。以上が、現時点で発表できる私のカースト思想に対する考えである。