おおかみこどもとニセ医療

 

私の母は『おおかみこどもの雨と雪』に大層感激した人間側であるらしく、109シネマズで観賞後、家に帰ってきて私にその感動を熱弁してくれた。「あれは母の話である」と。「帰りの電車でも思い出し泣きしそうだった」と。「子どもが離れて行くのってああいうことよね」と。

 

 

しかし私が観に行ってみると、母の感動は、私の感想とは全くズレていた。母の言うこととも、はてなで言われていることとも全く違う感想を私はおおかみこどもに抱いた。

 

まず、私の感情移入の対象はおおかみおとこの大沢たかおと、花の子どもの雪と雨と、雪のクラスメートの草平くんのみだ。花に感情移入することはない。いや、花のあの、「自身の物語に固執する」という姿勢には非常に親近感を覚えるのだが、「花の身になる」ことは私にはできない。「花の身」になることができるのは自閉症である私の兄を育てた私の母のみであろう。私の母にとっては、花の生き様というのは「もう1人の私」や「ありえた私」であろうし、この作品を「母性賛美だ」などということも無いだろう。私の母の感情移入の対象は花なのだ。

 

 

私の母が障害のある子を産んでも花のようにならなかったのは、障害というものがファンタジーではなく「現実」だったからである。「現実」なのだから、その障害に対する公的なサポート体制も様々にある。「現実」を恥じることも隠すこともない。私の母と花の違いはそこにある。

 

 

「花の行動が突拍子もない・現実味が無い」という批判がよく見られるが、花の行動が異常なのは当たり前である。おおかみこどもというファンタジーを産んでしまった以上、鬼子母神になって公的権力の介入を拒むのは当たり前である。花が誰にも相談せず、孤立しようとするのは当然である。なぜなら、「おおかみ子ども」という特別な児童に対しての公的なサポート体制が存在しないからである。雨や雪を区役所に連れて行ってポカンとされはしないだろうか?医者に見せて侮辱的な態度をとられはしないか?警察に信じてもらえるか?花にはたくさんの不安がある。それは『マイリトルポニー 第36話 くれくれスパイク』を見てもわかる。主人公トワイライト・スパークルは、弟のドラゴン「スパイク」の異常を見せるために2軒の医院を回ったけれども、スパイクが「ドラゴン」というだけでまともに診療をしてもらえなかった。トワイライトはその2軒で心が完全に折れ、友達のゼコラのところへ駆け込むことになる。

 

 

私はそのシーンを見て、ニセ医療との親和性をとても感じた。私はトワイライトの心の折れる気持ちがすごくわかるし、「医者にあんな冷たい態度をとられるくらいなら魔術師のところへ行くわ」という選択もすごくよくわかる。幸いゼコラは解決策(というか原因)を見つけられる有能な魔術師だったからいいものを、これがそこらのインチキ魔術師のところへ行ってしまったら、今度はスパイクはホメオパシーで苦しむことになる。

 

 

花が非現実的な対応をとったことにはそれなりの理由がある。もし花が現実的に行動した場合、おおかみこどもである雨と雪が、肯定的に扱われることと、否定的に扱われること、どちらの割合が多いかといえば、否定的に扱われることの方が圧倒的に多いだろう。全人類初となる子どもが発見されれば、見世物扱いも免れないだろう。たぶん、花はそのストレスに耐えることはできない。だから、花が自分の物語に閉じこもり、異常な行動力を発揮したのも、全ては自分と子どもを、公的なサポート体制の無いこの世界から守るためである。

 

 

こういった背景がわからず、「花の行動は異常だ・ありえない」などという批判をするのなら、それはニセ医療に敗北したも同じである。花を理解しようとしないから、ニセ医療が絶対に無くならないのである。「異常だ・ありえない」という声が増えれば増えるほどニセ医療は栄養を貰うのだ。あなたたち幸せ者にニセ医療は無くせない。ニセ医療の中にある「物語」を解体できない。「おおかみこどもがわからない」と言う人は、他者の物語が分からないのである。だが、それがわからないのなら、他者の物語を解体することもできなくなる。反ニセ医療戦線が今手こずっているのはそこなのである(ニセ医療を信じ込んでいる者の物語の中に入れない)。

 

 

花は必死に生きているだけである。この作品は視聴者に何かを強烈に投げかけているわけではない。細田監督の非常に自己完結的な・自閉的な作品である。しかしこの作品を見ては「アピールされた。不愉快」という感想を持つ人が後を絶たない。よくあるのが、「母性賛美だ」という批判だが、花は別に母親アピールをしているわけではなく、おおかみこどもを産んだ以上、母親にならざるをえなかったというだけの話だ。私の母もそうである。自分の子どもが自閉症児だとわかった以上、そこから「母親になろうかな~どうしようかな~」などと逡巡している暇は無い。そこで自動的に母親になるのだ。そこには母の意志は介在していない。母親にならざるをえなかったのだ。幸いにも母は夫からのサポートを受けられ、花のような極端な行動に走ることはなかったが、だからこそ幸運だった母は、劇中の花の中に「自分」を見出すのである。

 

 

あの作品を見て『いやお前こそどうなの?』という感想を抱くのはオカシイ。そもそも細田も花もメッセージなど発していない。それを勝手に「これには何かメッセージがあるに違いない」と言って穿った見方をするから物語が追えなくなるのである。『おおかみこどもの雨と雪』は「ついて来れるならついて来れば?」といったような、視聴者を突き放した作品であり、「敵意」などハナから無いのだ。私はあの作品を見て「アピールされた」「攻撃された」と言う人の観賞法に疑問を感じる。細田も花もそもそもあなたなど見ていない。

 

 

おおかみこどもは、ニセ医療問題を考えるうえでも非常に有用な作品である。また、視聴者1人1人に様々な解釈を生ませているということは、名作の証である。今後もおおかみこどもの読解が進み、また細田監督がおおかみこどもを超えるような作品を生み出してくれることを望みたいと思う。