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見られるってこと 市民は介入するということ

 

 

 人が人に首輪を付けてコントロールするなどという風景を私は許容できない。私の兄は障害者であり、フラフラと好き勝手にあちこちへ行くが、彼が生きてきた今までに、彼に首輪がはめられたり束縛する用途でヒモが結ばれたことなど一度も無い。私は幼い頃から外出時は兄のシャツの端や腕をしっかりとつかんで離すことはなかった。

 

 我々の世界には歴史があり文脈がある。人が人に首輪をつけるということには重大な意味合いがある。手綱を引くということには重大な意味合いがある。我々はそれを忘れてはいけない。「かつてそのようなことがあったのだ」と知っておかなければ、我々はまたいつかやる。落とし穴を見えなくしてしまえばいつかまた落とし穴に落ちる。

 

 犯罪者は首輪をつけられても良いのだろうか。刑務所内では服役者の管理が大変だからと彼らに首輪をつけ、「刑務官は大変だからこれくらい良いよね!刑務官を経験してない奴は口を出さないで!」などと言うことが先進国で許されるだろうか。

 

 私が誰かに中指をつき立ててニヤニヤしながら、しかし「いや俺にとってはこれは親しみを込めたジェスチャーなんだよw」と言ったら、私は許してもらえるのだろうか。そして、周囲に居た目撃者は私のその説明に納得するだろうか。そして私が「関係ない奴は口出さないで」「セカンドレイプ」「俺の友達の作り方に戦術指南するな!」と言っても良いのだろうか?

 

 例のハーネス議論では、とても楽観的な見方を示すグループがいて、彼らは「親だって公共の場で手綱を引いてるだけであって家の中では優しくしてるでしょ」とか、「私たちが虐待している親に見られるはずがない」という自身に満ちた考えを持っている。私はとてもビックリするのだけれど、少なくとも私は、公共の場で手綱に引かれた子どもを見たら、その子の私的領域での扱われ方についてもとても心配するし、その親子関係についても懐疑的な目で見ることになるに決まっている。

 

 私がとても不思議に思うのは、楽観的な見方を示すグループの、「親」という存在に対する信頼感である。「親だから大丈夫でしょ」とか「親なんだから」というものが絶対的な性善説に結びついている。しかし私は市民なので、そういった考えに同意できない。なぜなら私たちは、親であろうがなかろうが人間というものが何かの拍子に邪悪なものに変貌することを知っているからである。だから一見何も無さそうな親子関係があったとしても、子どもの安全の為に、私は常に疑った目で見ている。

 

暴れる子供には睡眠薬~あなたならどうする?

http://www.youtube.com/watch?v=ffQdx_qFd0g

 

だから私は、上の動画のようなアメリカ人たちの働きかけというものにはとても共感するのだ。たとえ子どもと大人という関係性の中にあっても、そこにあまりにもアンフェアな事態が起きた場合は、目撃者や第三者には観察したり介入したりする権利がある。それが社会というものだと思ってる。「社会で子育て」とはそういうことである。

 

 ハーネス擁護派は、まず「首輪」や「手綱」の歴史的意味合いやまた性的意味合いについてしっかり認識することと、またそういったヒモ付けする器具の持つ抑圧性やアンフェアな関係性というものを公共の場でむき出しにすることが重大なマナー違反であることをしっかりとわからなければいけない。これは戦術指南ではない。社会的な正義の話である。「あなたたちは良いのだろうけども社会的には駄目である」という話である。子どもが遊びまわったり大声で泣き喚いたりすることは迷惑ではない。迷惑なのは、子どもを手綱で引くという、抑圧的な支配構造を公共の場で披露することである。それは、自由や平等を重視する人間に対して何よりも不快感を与えるものなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

結局、ハーネスとかどうでもいいんですよ。

http://suminotiger.hatenadiary.jp/entry/2014/05/26/183029