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「俺たちは友達じゃない」という馴れ合い

 

 

 一般人は、「私たちは友達ではないよね」という前提を共有して会話をする。だから一般の人たちは礼儀正しくかつフレンドリーで繊細なコミュニケーションをすることが可能になる。しかしアスペルガーADHDの人というのは、そういった「私たちは友達ではないよね」という一般人たちの暗黙の了解、一種の馴れ合いと言っても良いようなルールを理解しない。脳の機能の問題により、そういった暗黙のルールを察知できない。ゆえに、礼儀正しくかつフレンドリーで繊細なコミュニケーションをすることが不可能であり、アスペルガーADHDの人が一般人に喋りかけると、「不躾」「無礼」「馬鹿にしてるの?」「怒ってるの?」「迫力があり過ぎる」という感想を持たれてしまうのである。

 

 たとえばアスペルガーADHDの人の書いた文章を読んでみると、なるほどこれは一般人が読めばそこから悪意を読み取るだろうなぁ、と感じるものが多い。アスペルガーADHDの人は悪意に基づいてそれを書いたわけではないのだろうけれど、一般人からすれば「こんな書き方をするなんて悪意があるに決まってるだろ!」となるわけである。

 

 確かにアスペルガーADHDの人の喋り方や文章の書き方はすごく皮肉っぽい。ものすごく馬鹿にされている感じがある。一般人であれば悪意がある場合や喧嘩腰・挑発のときのみに使うような言葉を、アスペルガーADHDの人は真顔で使うから、一般人は大変混乱するわけである。「え?え?なんかすごく失礼なこと言われた?これは喧嘩売られたんだ!」となるわけである。

 

 であるから、このような衝突をシステム的に回避するとすれば、それはまずアスペルガーADHDの人に対して、「この言葉は、普通の人は悪意のあるときや喧嘩を覚悟してるときにしか使わないんだよ」と教えることである。また、一般人には「アスペルガーADHDの人は悪意があるからそういうことを言ったんじゃないんだよ」と教えることである。

 

 しかしここまで書いていて、「アスペルガーADHDの人は悪意があるからそういうことを言ったんじゃないんだよ」という理論は私自身もいまいち信用できていない。「悪意が無いなら何でそんなこと言うねん?」というのは私自身もアスペルガーADHDの人に対して非常に疑問に感じているからだ。

 

 そこで私が考えたのは、一般人たちの礼儀正しさの根源となっている思想、「私たちは友達じゃないよね」という適度な不信感、適度な距離感の存在である。そういった不信感の存在ゆえに一般人たちは友好やコミュニケーションを渇望するのではないかということである。そして、アスペルガーADHDの人が非常に不躾に見えるのは、一般人たちが持っている「私たちは友達じゃないよね」といった不文律の存在を知ることができず、「私たちは友達に決まっている」という前提のもとにコミュニケーションをとろうとするからなのではないだろうか。だから彼らは、たとえば「親しい人に冗談混じりでかければ問題ない言葉」を、全く親しくない人にいきなり投げかけてしまったりするのではないだろうか。

 

 これは私の勝手な推理であり、アスペルガーADHDの人たちの個人差や生き方も考え方も様々であるのだから、決して一くくりに語れるものではないことは承知の上で、このような文を書いた。コミュニケーションにおいては、どこからが冗談でどこからが冗談では済まなくなるのか?場所・関係性・シチュエーションがどのように会話や冗談に影響を与えるのか?ということが、私の最近考えていることである。