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「私」の問題と「構造」の問題

 

 

 たとえばとても醜い男性が居たとする。彼は20年間生きてきた中でずっと女性に無視され続けて、あるいは嘲笑され続けて、あるいは屈辱的な言葉を投げられ続けて、あるいは直接的なイジメなどを受けてきたわけである。その男性があるときフェミニストと会話したところ、フェミニストはその男性に「あなたは男性なんだからこの社会構造の中ではあなたは女性への加害者なのよ。反省しなさい。」と言うのだが、果たしてその言説にその男性は同意するだろうかという問題である。

 

 あるいは、女性とのコミュニケーションを完全に諦めた男性が、しかし男性ではあるので、女性の裸体が映っているポルノは楽しむのである。そこへフェミニストがやって来て、「女性の裸体で性的興奮をするのは女性差別!」と言ったところで、その男性が懺悔して女性の裸体への希求心を無くすのかという問題である。

 

 女性に虐げられた男性や、女性と関係を作ることをしない男性は、確かに彼らは男に生まれて来たというだけで社会構造的には女性への加害者なのかもしれないが、それ以上に彼らには彼らの人生を歩いて来た個人の歴史というものがあり、彼ら個人としてはむしろ女性に抑圧される側であったり、また女性と一切関わらない人間であったりするのである。そういうところにフェミニストが乗り込んで、女性差別だの、性的消費だの、性的なまなざしだの、男には原罪があるだのとと説いたところで、あまり意味が無い。むしろ、「こっちは現実の女を避けてるのに何でフェミニストは寄って来るんだよ」と男性はフラストレーションを溜めるのである。

 

 インターネット上におけるフェミニストと弱者男性の争いの不毛さはそういうことが原因である。弱者男性の個人史としては彼らは女性から被害を受けているのに、フェミニストの説く構造論ではその弱者男性は女性への加害者ということになっているのだから、これはまさに水と油である。見えている景色が双方で全く違うのだ。そしてまた、この問題はツイッターが公的領域なのか私的領域なのかという問題でもある。ツイッターがリラックスできる私的領域なのであれば、弱者男性は各々の好みのポルノを見せ合ったり語り合ったりするのであるが、ツイッターがパリッとした公的領域であるとするのならば弱者男性もポルノの開陳をそれなりに自重するだろう。そして今のところ、大抵の人間はツイッターをほぼ私的領域と見なしているわけである。であれば、弱者男性たちはポルノをネタにコミュニケーションするであろうし、そこへフェミニストが公的な道徳を掲げながらやって来ても、「ここは私的領域だろうが!治外法権だ!」と弱者男性が反論するのも、ごく自然なことである。「俺たちのポルノ語りを止めさせたいのならツイッター運営にかけ合ってみろよ」という話である。

 

 一部のフェミニストの言説が不毛なのは、「精神論で男の性欲は無くせる」と考えていることであり、しかもそういった精神論を、現実の女性とはあまり交わらない弱者男性に課そうとするものだから、弱者男性は「俺らに言う前に現実のヤリチン男に言ったらどうなん?」と疑問を持つのである。「何で俺らがオナニーしたら現実の女性への加害になるねん」という疑問も当然生まれる。「なぜあなたたちは私的領域にやって来るのか」「なぜ強者男性のところへ行かないのか」という弱者男性の疑問に、フェミニストは明確な答えを返せない。

 

 私的な趣味を楽しんでいる弱者男性と、公的な道徳を課したいフェミニストが対話をしても、全くの無駄である。お互いに見えている景色が全く違うのに、性について語るのだから、不毛な対立は深まるばかりである。そしてまた、女性から加害を受けた経験のある男性にさらに「男性の原罪」を課そうとフェミニストが奮闘するのは、ハラスメント以外のなにものでもないと私は思う。「男に生まれたお前が悪いんだよ」とフェミニスト側が開き直って、女性から抑圧された男性をさらに糾弾してくれれば、その人たちは原理主義フェミニストとして芯の通った過激派になるし、心おきなく対立できるのだが、そこまで開き直る気概がフェミニスト側にあるのかということである。

 

 結局はツイッターが私的領域なのか公的領域なのかという問題である。ツイッターが公的領域なら男性は良い子ちゃんの顔をするし、自分の個人的事情も押し殺して政治的正しさを守るだろうが、ツイッターが私的領域なら男性はフリーダムにポルノで遊ぶし、自分の私的な心の傷も武器にして政治的正しさを打ち破るのである。男の性欲は絶対に無くならないのだから、後はお行儀良くするかフリーダムに振る舞うかのどちらかでしかないのである。フェミニスト側が「弱者男性の個人的事情は勘案しない。ここは公的領域である。」というのであれば、フェミニスト側が真に訴えるべきなのはツイッター運営に対してであり、弱者男性の溜まり場に乗り込むことではないのである。

 

 私はここまで「ポルノ」という言葉を使っているが、実際にツイッターで弱者男性が共有しているのはポルノとはとても言えない、服を着たただの女の子の絵である。本当の裸体はpixivとかでやってるのだ。にも関わらず服を着た状態の女の子の絵をポルノだいやらしいだと問題視するフェミニスト側の方こそを私は問題視したい。服を着ていようがいまいが女の子を可愛い美しいと思うのがノンケの男性であり、その根源的欲求を抑圧しようとするネットフェミニストを私は糾弾する。もちろんポルノのゾーニングについても小児性愛的ポルノの取り扱いについてもこれから考えていかなければいけない課題であり、また解消されていない女性差別や女性の被害も多々あるだろう。しかしだからといって男性が女性を求める欲求を全てを一緒くたにして「邪悪」「いやらしい」「差別的」と批判するのは間違いであろう。私たち人類はいやらしいからここまで発展してきたのである。私たち人類は、いや少なくとも男性はいやらしいから生きていけるのである。それを、弱者男性のささやかな娯楽や自意識を狙い撃ちして弱い者いじめを行なおうとするツイッターネットフェミニストを私は許すことができない。

 

 フェミニズムにものすごく個人的な事情を絡めて一般論・政治的に正しい言論・フェミニズムとして語るネットフェミニストはいるわけである。ならばそれを見た人は「あっそれもアリなんだ」ということがわかり、一般人の各々が自分の個人的な事情を一般論に絡めて政治的に正しい事として語りだすわけである。これはすなわち、「政治的に正しい弱者の地位」の椅子取りゲームをみんなが始めたわけで、それならば政治的に正しい弱者の地位にいつまでも女性だけが座っていられるということではないということも意味している。音楽が鳴っている間に椅子の周りをグルグル回り、音楽が止まる瞬間を狙わなければならない。形式的平等はついに極まったわけである。弱者レースのスタートだ。

 

 構造的に被害者だからといっていつまでも弱者男性に目をつけてイビってるなよ、ということである。ならば弱者男性も構造的被害者の地位を勝ち取るまでである。これから始まる最弱決定戦は社会をメチャメチャにするだろうが、それもまた人間が生きている証、社会が存在する証でもあるのである。