なぜ社会は女性を人間の基準にできないのか?

 

 

 なぜ女性を社会の基準にできないかというと、まず「女性は男性の体が好きではないから」という理由が挙げられる。匿名ダイアリーでも指摘されていたことだが、女性は優秀になればなるほど異性に対するストライクゾーンが狭まっていくという現象が起きる(上昇婚を望む本能が働くため)。これは男性には起こりえない現象である(男性の目的はそもそも女体であるため、男性は下方婚・同等婚を苦にしない。ぶっちゃけて言うよ。男にとって女は目の保養になるけど、女にとって男は目の保養にならないでしょ)。この上昇婚の欲望は、女性が家の長にもなれないこととも繋がっている。どれだけ女性の教育に力を入れ、優秀な女性を生み出したところで、その女性は異性に対する要求が高く、異性を養う気概も無く、自分より優秀な男性の家父長制に取り込まれて行く未来しか無いのである。「家母長」が生まれないという問題だ。女性という性が家の長になれず、常に家父長制の下につくのであれば、女性という性を社会の基準にすることはできない。男性には存在する「扶養心」や「器」が女性には存在しないからである(女性はリーダーたりえない)。

 

 女性を社会の基準にするともう一つまずいことが起きる。それは「欲望の無い者勝ち」の社会になってしまうという点だ。女性が男性よりも理性的で賢明である領域は存在するだろう。しかしその賢明さゆえに、女性は何も起こさず悪者にもなりたがらない。私はレズビアンが好きなので、女性しか存在しない世界をよく夢想するが、しかし冷静に考えてみると、そういった女性オンリーの世界では良くも悪くも何も起こらず、波風が立たず、社会に何の波紋も生まれないであろう。「女性しか存在しない世界」ではまず化粧・メイクは滅びると私は見ている。女性のみの世界では、飾り立ててレースをするよりも、最初から化粧禁止で競争が起きない社会を志向すると思うのだ。今現在、我々の世の中で女性たちが飾り立てレースを楽しめているのは、男性が存在してくれているからに他ならない。男性が競争の場を担保しているのだ。お化粧で自分を飾り立てるなどの女性のある種の欲望は家父長制と切っても切り離せない関係にある。女性のある種の欲望は家父長制と共犯関係にある。これに人々が気づけるかどうかだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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