人間の価値(2)

 

 

 前記事では、LGBTは生産性においても、また徳においても、ノンケに何一つ劣っていないことを証明した。しかしそれでも、ノンケのLGBTに対する優位性は変わらない。なぜなら、「男らしさ・女らしさ」を創り出せるのはノンケのみであり、LGBTはノンケの生み出した男性性・女性性を間借りしているに過ぎないからだ。

 

 

 「ノンケが消滅した世界でも、LGBTは独立して存在できるんですよ。男らしさ・女らしさ・性愛文化を保持できるんですよ。」ということが証明されるのなら、私の説は間違いである。しかし、「ノンケがいなくなったら、ジェンダーの基準が無くなってLGBTも居なくなった」みたいなことになるのであれば、私の説は正しく、ノンケはさながら太陽である。あるいはノンケは地球であり、LGBTはその地球上に住まわせてもらっている微細な生命に過ぎない。

 

 

 私は上記のようなことを、ポストモダンの欠陥や左派リベラルフェミの論理的強度の脆弱性について思案していたときに思いついた。ポストモダン論者や、左派リベラルフェミがいくら己の先進性を誇ろうとも、じゃあ彼らは一体何の上に立っているのか、あるいは彼らの命綱になっているものは何かと考えた場合、それは結局は我々人間の原始的な感情と保守主義・保守的観念がポストモダン論者や左派リベラルフェミを支えているという結論にしかならない。フェミニストが、性的な話題になるとすぐに保守派と意気投合したり、あるいは左派リベラルも、女性が損をしてしまうような場面になると、すぐに保守主義と保守的観念と家父長制主義を発揮して、なんとか女性が損をしないように奔走するのも、そういうことである。彼らはいつでも保守社会や保守主義に戻れるような逃げ道を作っておいて、先進性のチキンレースをしているだけである。余興をしているだけである。そういったチキンレース・余興はただの遊びであるから、もちろん全く論理性が欠けている。要は彼らは怖ければ(人間性の限界にぶつかれば)ブレーキを踏んで論理を放り出して保守社会に逃げ帰っちゃうわけで、その程度のリベラリズムに一体どれほどの価値があるのか、私には甚だ疑問である。左派リベラルフェミがいくら正しいことを言っているように見えても、それは結局は、命綱を腰に巻いて崖から身を乗り出し、「見ろ、私は空を飛んでいる!私は先進的だ!」と叫んでいるようなものだ。あるいは、地面に足が付く程度の海の浅瀬に乗り出して、「見ろ、海など怖くない!海なんて幻想なんだよ!」と言っているようなものだ。

 

 

 ポストモダン論者や左派リベラルフェミが「自分は空を飛んでいる」あるいは「自分を海を泳げている」と錯覚できるのは、保守主義が彼らの命綱、あるいは土台としてシッカリと存在してくれているからであって、本当に保守主義が消滅したとき、ポストモダン左派リベラルフェミは崖から身を乗り出せるのか、足の付かないほど深い海に入っていけるのかというのが問題である。「保守主義」と「ポストモダン左派リベラルフェミ」の関係性は、「ノンケ」と「LGBT」の関係性と全く同じである。

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の価値

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保毛尾田保毛男クレヨンしんちゃんのオカマ、ワンピースのオカマ

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