競技者と観戦者の区別がついてないのか?

 

 

日本人として誇らしい←意味がわからん

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140130004813

 

 

ブラック企業が何でダメなのかわかっていない人間がワタミを批判しても意味が無い。その批判のすぐ後に、ワタミの擁護になってしまうような発言をするからである。その人は問題の根本がわかっていない。理由がわかっていない。

 

「日本人として誇らしい」がダメとか言ってる奴も、根本がわかってない。ゼロ年代が終わってからはネトウヨ界隈は完全にネタ扱いされるようになり、言論の力も失い、蔑まれる対象になった。みんな「ネトウヨみたいにはならないでおこう」と思っている(だから今ネトウヨを攻撃してるハゲックスみたいな奴は遅すぎる。ただの死体蹴りで、カッコよくもなんともない)。でも、何でネトウヨみたいなことをしちゃダメなのかはみんなわかってない。

 

そもそもスポーツ観戦とは、観戦者の心を慰撫する効果のあるものだ。スポーツは人に勇気を与え、癒す。だからスポーツ文化は発展している。みんなスポーツを見る。それを、「スポーツを見て惨めな自分を慰めてるんでしょ?」なんて言うのは、私の嫌いな「健常者の邪推」そのものであるし、そもそもスポーツを見て自身を慰めることは恥ずべきことでもなんでもない。

 

 

 

ホルホルがいけない」と主張する人が居る。いわく、競技者の努力にフリーライドし、競技者の手柄を横取りする忌まわしい行為だと言う。「わしが育てた」とかも醜い心性の発露だと言っている。

 

そんなわけないw ということは、「3月のライオン」で島田開を応援する山形の爺さん婆さんたちは島田の手柄にフリーライドする醜い心の持ち主だってことかw?んなわけないだろ。

 

 

temtex 日本人が出した成果を、なにより日本人が賞賛しないでどうする。評価して喜んでさあ自分はどうしよう、だろ?

 

 

スポーツを見る者は、自分と競技者をきちんと区別できている。当たり前のことである。努力し苦闘しプロになったスポーツ選手たちに敬意を払って試合を見ている。彼らは自分たちには絶対に手の届かない存在である。フリーライドなんかそもそもできないし、手柄を横取りなんかできない。どうやって横取りするんだよw だから私たちは好き勝手言うのだ。応援し、評価し、罵倒し、共感し、彼らの一挙手一投足に注目する。

 

そういう営みの中では、自然と競技者に感情移入し、彼らが勝てば喜び、負ければ落ち込む。中には、競技者の姿に自分を重ね合わせる人だって居るだろう。それの何が悪いのか。他者の人生の中に自分の人生との類似点を見出し共感する、その営みの何が卑しいのか?

 

deepthou9ht 「お前何もしてないだろ。」って内心思うよね。

 

こんなことを言われたら全てがオジャンである。スポーツに限らない。音楽のライブも、演劇も、全てが終わりだ。「お前は何もしていないのだから語るな(評価するな)」というのは最低最悪の口封じだ。コミュニケーションの終焉だ。もう誰もライブにも、演劇場にも行かなくなる。

 

私は、自分のやることを評価してもらいたい。私に感情移入してもらいたい。然るべき場で行った私の行動を評価してもらいたい。私は、私を見てくれている人に対して「お前は何もしていないのだから語るな」なんて言うことは絶対に無い。私が何か手柄を上げたのなら、見ている人に一緒に喜んでほしい。

 

ネトウヨが問題なのは、スポーツ観戦の際に生まれる感情を過剰にナショナリズムに繋げ、「だから日本は優れているのだ」「日本特有の精神性だ」「日本はこうなのに○○国はダメだ」などと考えたり言い出したりするから問題なのであって、それさえないのなら、何かに誇りを持ったり何かに共感したり、何かを応援することは何の問題も無い。「日本人」という共通点を重視して応援することにも何の問題も無い。むしろ本来は、スポーツ観戦をすればするほど、ナショナリズムは消えていく(私などもそうであった)。

 

それがわかってない奴らは、とにかく「あんなダサキャラ扱いされてるネトウヨみたいになっちゃだめだ」「ホルホルしちゃダメだ」という強迫観念の基、スポーツ観戦における全ての営みを否定する。「野茂の手柄は野茂のものだから~」とか言って野茂の人生を見ようとしない。コミットしようとしない。野茂や本田の苦闘や勇気にリスペクトを払おうとしない。それをすればホルホルしそうになるからだ。自分を抑えているのだ。

 

「興味も無いのに応援を強要されている」「同じ日本人だから応援しろと言われる」という言い分はわかる。私も興味も無いのに毎年紅白歌合戦を聞かされ、見たくもないフィギュアスケートをテレビで流され続けるが、両親が喜んでいるのだから良いのである。母が女子スケート選手を応援しているとき、それが「フリーライドする姿を外部に発露している醜い姿だ」と言われようとも、母が楽しんでいるのだから私はそれで良いのである。私はそれでいいし、応援の強要が嫌な人はハッキリ嫌だと言えばいい。

 

私は、この記事の http://anond.hatelabo.jp/20140130004813

「タダ乗り」という言葉にとても違和感がある。どうやってタダ乗りするのだ?タダ乗りとはどういうことだ?「共感」や「感情移入」は実行可能だろうが、「タダ乗り」など実行不可能である。選手の手柄は自分の手柄になったりはしない。この「タダ乗り」という語についてうまく説明できる人はぜひしてほしい。

 

 

最後にこの人の文章を載せて終わる。

http://anond.hatelabo.jp/20140130151117

 

確かにそうなんだけどあえて言わせてくれ

俺は昔とあるマイナーな競技で日本トップレベルで戦ってたことがあるんだけど

自分ががんばっていても誰も応援してくれないというのは時々すごく虚しい気分になるものなんだよ

自分が好きこのんでやってることだし誰かが俺を応援べきだなんてまったく思っていなくてもな

から別に根拠なんかなくていいからなんとなく近所とか同じ学校とかそれだけでも応援したいならするべきだと思うんだ

根拠なんかないとしても地縁とかでなんとなくだってそれで人の輪が広がるなら悪いことじゃないだろ?