労力のアウトソーシング

 

 

 メカクシティアクターズ act10だけど、Aパートは良かった。アザミの声優が新井里美さんだっていうこともあって、アザミが凄く悲しんでるっていうことだけはビンビンこっちにも伝わって来たのね。「自分のせいで迷惑をかけるからもう会いたくない」っていう意識に悩まされることは俺はよくあるし、日本人ってシャイだからそういう悩みを持ったことがある人もいっぱい居ると思う。だからアザミのそういう悲しみってすごく普遍的で共感しやすいよね。そういう乗っかりやすい苦悩に、新井里美さんの熱演が絡んだから、なんか今までで一番「わかるわかる」って、メカクシティのキャラクターに感情移入できそうだった。

 

 でも、アザミが異世界に帰っちゃうところでそれも微妙になっちゃう。アザミは娘との今生の別れだっていうのに、娘のところに駆け寄って抱きしめたりしないのよね。ずーっと遠くで会話してるの。そんで、「お前たちはこの世界で幸せに暮らすのだ」とか一方的に言って、居なくなっちゃうんだ。誘拐されてるお父さんを放り出したまま。ちょちょちょ待ってと。あんたものすごい戦闘能力あるんだから帰るならせめてお父さんを助けてから帰れと(お父さんは見捨てられたんだなwと解釈してる人多数)。そんで、「お前たちは幸せになれる」とか何を根拠に言ってるんだっての。残された家族はどうすればいいんだと。

 

 メカクシティアクターズってすごく村上春樹作品っぽいなって思ってるんだけど、アザミのそういう独りよがりな悲しみの浸り方とかも春樹っぽいんだよね。「もっと悲しめるだろ。もっと行動できるだろ」っていうところで、早めに切り上げて自己完結しちゃう。悲しみの寸止めというか、「え?それで終わりなの?」っていう投げっぱなし感がすごく共通してる。

 

 登場人物たちは「悲しい。不幸だ」ってブツブツ唱えてるんだけど、視聴者としては「あんまり悲しそうに見えないよね」とか「まだ何も起こってないのに何が不幸なの?」っていう感想を持ってしまう。アザミが娘をギュッと抱きしめず、お父さんを助けようともしないのなら、じゃあアザミにとって家族はそんな大切なものでもなかったんだね、って、普通の人なら思うで。そういうところがすごく描写不足。

 

 描写不足っていうと、アザミが迫害される理由もよくわからなくて。「異質なものが迫害される」っていうお話やシーンって世の中にいっぱいあるけど(もちろん現実の事件としてもある)、やっぱり「何で彼らは排除されるの?」「何で恐れられてるの?」「何で嫌われてるの?」っていうところを、普通の作品ならきちんと描写して視聴者に納得させるんだけど、メカクシティはそこら辺放棄して、村人がアザミの家を唐突に襲撃し始めるから視聴者としては「何でいきなりwww?」「こいつらは何を恐れて先制攻撃をしてるんだ?www」ってなっちゃうのよね。つい最近、『不安の種』っていうホラー映画を見て、これがまぁ駄作も駄作だったんだけど、やっぱり「お前は何をそんなにビビってるの?w」みたいなシーンがありまして。要は、登場人物は「ヒィィィイ!」とか言って布団を抱えてビビってるんだけど、見てる方としては「いやそんなビビるところかこれw?」って疑問に思っちゃうんだよね。

 

 『不安の種』は邦画のダメなところ凝縮したみたいな作品で、例えば「それは視聴者が考える(解釈する)ところでしょ?」というところを、登場人物がわざわざ口に出して言っちゃうので(「女の顔が藁人形や~!」)、視聴者は「それ何で口に出して説明しちゃうの?言ったら台無し、怖くないでしょ?」って思っちゃうわけ。ナレーションでいきなりネタバレすることもあって(「この女の子は変なんです」って、シーンの始めでいきなり言っちゃう)、それもホラーを台無しにするというか、「この女の子はヤバいですよ」と説明されてから、その女の子の奇行を見せられたって怖くないよね?俺がおかしいのかな?ホラー映画見てるときにいちいち怖がるポイントについて説明されたくはないんだけど(真田広之「今からテレビから貞子が出て来るんだ~!」)、『不安の種』ってそういうことをするんだよねぇ。原作の漫画はけっこうおもしろいのに。

 

 話が逸れたけど、つまりアザミが迫害されるに至った理由が納得できないんですよ。そこをカゲプロファンは創造力を働かせて、自分たちなりのストーリーで補完するんだけど、俺はそういうことができないっていうか、作者が言ってもいないことを勝手にそこまで妄想(言葉が悪いね)して正史に組み込んじゃうのは作者に失礼じゃないか?って思っちゃうんですね。作品っていうものにはやっぱり妄想していい部分と妄想してはいけない部分があると思うし、アザミが迫害されるに至った理由の説明なんてものは、それは作者であるじんの仕事だと思うんだけど、じんはそれをファンにアウトソーシングしてるんだよな。ファンをタダ働きさせてるっていうか。俺はそこがおかしいと思うというか、「そこはお前が説明せなアカンところちゃうんか!」って言いたくなるし、「それはCパートで説明した」と言われるのなら、「ならそれは俺に伝わってねぇよ!」と返したくなる。

 

 Aパートの不満はこれくらいで、残りのBパートはいつものメカクシティアクターズ。まず「解かっている人(蛇?)」同士が止め絵で意味深な会話して場面が終了。すると次はマリー(アザミの孫)とセト(語尾が「ッス」の少年)が遭遇するシーンで、ここで満を持して「想像フォレスト」って曲が流れるのは良いんだけど、なぜかヴォーカルが男になってるんだよね。これですよ。意識が散っちゃうんですよ。「女の子視点の曲が何で男ヴォーカルなのー?」って、想像フォレストを知っている俺はビックリしちゃうわけですよ(曲の価値を製作陣自ら下げてるよね)。そこでマリーとセトのセリフが右から左へ抜けてっちゃう(そのセリフも見返したら大したものじゃなかった)。そんで曲の終わりと共に回想が終わって(Bパートもほとんど回想でした)、マリーはコノハを発見するんですが、コノハが「喉が渇いた」って言ったらマリーはホットの紅茶を出すんだよねー。そこもなんか生物としてオカシイというか(そこが萌えポイントなの?)「この娘アホなんちゃうんか」ってちょっと引いてしまった部分。

 

 今回の10話Aパートってこの作品の中でもまともな(見れる)シーンだったし、この作品の根源を描く部分だっただけに余計に欠点が目立った。ここがメカクシティアクターズの土台部分なんだから、ここキッチリ固めておかないと(必然性を構築しておかないと)、後に続くお話もスカスカでグラグラになっちゃうよ(わけもわからずただ運命に流されるだけのお話になっちゃう)。これがもし同人作品だったら、いろんなところを曖昧にして、後はユーザーの想像(創造)力に任せるっていう発展のさせ方もアリだけどさ、じんさんはお金を取ってるんでしょ?なら創造力は自分のもんを削らんと。なんかこの流れで行くと、ファンの考察をそのまま公式設定に組み込んで展開させて行くような未来が見えるぞ?それってファンがタダ働きしてるってことだよね?まさかそんなことをじんさんがするとは思わないけど、少し疑念がわいたよ。

 

 メカクシティもあと2話だけど、一体どうなるのか。シンタローくんは主人公という肩書きを捨てた方がいいのではないだろうか。興味は尽きません。