同性結婚に対する私見

 

 

 「ゲイの人たちがキスをしてても何も感じなくなりなさい」「ゲイのキスに拒否感があるなんてあなたは非論理的です」、という主張が通ると、同時に「萌えキャラの出す嬌声に何も感じなくなりなさい」とか「人形と結婚している男性に偏見の目を向けてはいけません」とかの主張も通るわけである。同性結婚が実現された暁には、「あなたがもし他人のセックスに『ウッ』と思っても、それを声に出してはいけません」という社会になるわけであるから、そういった社会に住むフェミニストが萌えオタの性欲に『ウッ』と思っても、もう何も言えなくなる未来がやってくるわけである。

 

 結局、この世の物事は数珠繋がりになっていることが多く、Aという要素を移動させたら、Aと一緒に芋づる式にBという要素も移動してしまうのである。象牙の搭の中であったり、また頭の中の体操であれば、AとBを切り離して考えたり、またAとBが全くの相互不干渉であるという前提のもとに思索を進められるのだが、現実の世界、つまり巷では、AとBは連動して動くし、また大衆もAとBをわざわざ切り離して考えようとはしない。私がなかなか同性結婚に完全な賛成をできないのは、同性結婚を認めることによって、さらに何か別の結婚が許可されてしまうのではないかと危惧しているからである。それは、同性愛や性同一性障害をいち早く取り込んだオタク界が、他者(の性指向)を認めると同時に自分自身をも認めることができるようになり、それが自身の解放へと向かい、オタクが自分自身の性欲を全く恥じなくなったように。同性婚を受け入れ解放された巷の大衆が、そこからさらに社会に何かを要求できると考え始めたときに、左派やリベラルはそれをコントロールする術を持ちえているのだろうか?具体的に言えば、一夫多妻制の実現であったり、近親婚、また動物やヴァーチャルなキャラクターと結婚をする権利の制定などである。日本のwebには、アメリカ在住のとあるネトウヨ女性ブロガーが居り、私はその女性の言説のほとんどに反対しているが、ただ一点、そのブロガーに消極的に私が賛成する部分があるとすれば、それは彼女が「何でもありは何も無いのと同じ」として「同性婚を認めれば次はまた別の種類の結婚を認めなくてはならなくなるだけ」と言い、同姓婚に反対している部分だろう。私が危惧しているのもそういうことであり、しかし同時に、そういうことを私が危惧しても仕方ないのではないか、動物や3Dキャラクター、もしくはロボットとの結婚なども、私が老人になる頃には常識化しているのかもしれない、などとも思うわけである。

 

 同性婚に完全に賛成できない私の頭は固いと思う。ゲイの人も異性愛者と同等なくらいには幸せに生きられるべきだと思う。そういうのは当然の権利だと思う。なのになぜ私は同性婚に賛成できないのだろうか。結局私にはまだまだ絶望が足りないということなのだろうか。よくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

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