私は「酒鬼薔薇が書いたものが世に出るのは遺族全員と酒鬼薔薇が死んだ後だ」と書いたが、酒鬼薔薇の死後にあれが出版されてたらより強い酒鬼薔薇の神格化が世間で行なわれてしまっていたのではないか(実際、酒鬼薔薇を知らない世代はあの本の文章にに才能を感じてしまっている層もいる)。だとすれば、酒鬼薔薇が出したものをすぐリアルタイムで人々が手に入れて、「これは優れていない」「これに価値は無い」と評論し、酒鬼薔薇のショボさを指摘したということはそれなりに意味のあることなのではないか。酒鬼薔薇の神格化を防いだという意味で。ともあれ、そういった評論が遺族の救いになることを私は切に望んでいる。「サムの息子法」のような法律の制定にも期待している。そういった法律を望まない人の反論として、「じゃあ元受刑者が無罪を主張したいときはどうするの?」というものがあるが、元受刑者が無罪を主張するのと、元受刑者が犯行時の心理や事実を描写することには大きな隔たりがある。今回の酒鬼薔薇は後者の「犯行時の心理や事実を『詩的に』描写すること」にあたり、そういった犯行時の真実を詩にして公開したい、お金を稼ぎたい、それができないのは差別だ抑圧だ、などという理路に私は賛同できない。元受刑者が無罪を主張したり、贖罪したり、出所後の生活の苦境を語ることと、犯行時の心理や事実を詩的に描写することには大きな隔たりがある。私は前者の権利(無罪獲得への闘争、あるいは贖罪・嘆き)は必要であると考えるが、後者の権利(ナルシズムを満たす権利)は必要ないと考える。しかしそうなると、今度は別の問題として、「木嶋佳苗の本は許されているのになぜ酒鬼薔薇の本は許されないのか」というものが出て来る(獄中の受刑者と出所済みの元受刑者という違いだろうか)。まぁ、木嶋佳苗に殺された男性たちの遺族が出版中止を求めれば、木嶋と出版社はそれに応じるべきだとは思うが。ともかく、遺族の意思が最優先である。遺族が訴えれば元犯罪者の売上金を取り上げられる法律が必要である。これは「追加罰」でも何でもない。遺族をケアすると同時に、殺人体験が殺人者のアドバンテージにならないようにする仕組みである。こういう「アドバンテージにならないようにしようよ」という話をすると、「じゃあ元受刑者は一生社会の隅っこに居ろというのか!」と憤激する者がいる。もちろん私は「一生隅っこに居ろ」などと言うつもりはないが、「大の字になったり、大声を出したりすることはかなり難しくなるよ」とは言える。それが殺人を犯したものにつきまとう因縁である。この「因縁」は刑法の外にある。この「因縁」は左派やリベラルがいくら解体しようとしても徒労に終わる。

 

 

 

 

 

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