『メカクシティアクターズ』を5話まで見て気づいたのだけど、製作側とかじんさんは、このアニメを初見で理解してもらおうとは初めから思ってないんだろうな、ということ。きっと、「この作品を何回も何回もループ視聴して理解してね」って思ってるんだろうし、そこでループする気の無い人間には何の期待もしてないんだろう。そういう人間はじん側から切ってしまう。「ついて来れる奴だけついて来いよ!」っていうスタンスだ。
だから『メカクシティアクターズ』は視聴者に対して非常に不親切な作品であり、このアニメに期待していた人間達からは非難を浴びている。「普通、人にモノを見せるときにこういうやり方はしないよね」というのが大方の感想であるし、私もそう思う。製作側・じん側のやり方は非常に不誠実だと思う。私は「想像フォレスト」や「如月アテンション」や「オツキミリサイタル」や「夕景イエスタデイ」に感動し、涙し、もっと『カゲロウプロジェクト』というものを知りたくなった。それらの曲の真のストーリー、もっと深いストーリーをアニメで披露してくれるものだと思っていた。しかしどうやらそれは違うようである。難解な時系列、わけのわからない演出と構図、ラジオでやった方が良いと思うような退屈な会話劇。そして各話にちょっとずつある、「あぁ、そういうことなのね」という気づき。しかしその気づきはニコニコ動画のカゲプロファンのコメント無しには気づけなかったであろう。私はカゲプロファンに感謝するしかない。しかしその気づきには大した感動が無いのが困りものだ。「わかったけど、だから何だよ」と思ってしまうのだ。
「あ、そういうことだったのね」を前面に押し出すことは正しいことであろうか。つい先日、浅野いにおが自身の完結作『おやすみプンプン』についてインタビューで語った。 https://cakes.mu/posts/5608 ここで浅野は「ペガサス団は実は世界を救ってたんですよ」などと発言したものだから、読者たちは一斉にずっこけた。ペガサス団というのは主人公プンプンとは全く別のストーリー軸で動く、カルト宗教さながらの団体であり、このおかしな団体が作中の随所で意味ありげに描写されるので、このペガサス団が頻繁に描写されるのには何か意味があるに違いない、と真剣に考察した読者もいるはずだ。私は、こういうタイプの作者にありがちな「思わせぶりに描写しといて後でひっくり返す」という手法を知っていたのでペガサス団のくだりは読み飛ばしていたが、正解だったようである。あいかわらず不誠実な作家である。「あれはみんなわかんなかったっしょ~実は世界を救ってたんよ~まぁ本編には関係ないんだけどね~」などと発言した人間の作品を、次から誰が真面目に読もうと思うのだろうか?この手の作家は得てして狼少年になる。読者はこれ以降「どうせこの描写も意味ありげに見えて意味が無いんでしょ」と警戒し、その作家の作品を真剣に読まなくなるのだ。
真剣に作品と向き合おうとする読者をあざ笑うような不誠実性を発揮する創作家というのは一定数いる。今挙げた浅野いにおなども、おやすみプンプンがクライマックスに向かうにつれ、徐々にリスペクトを失っていったタイプの作家である。そして件のインタビューで、そのリスペクトを失った理由の答え合わせをしてしまった。なんと情けない「あ、そういうことだったのね」だったのだろうか。
じんの場合はそうではない。彼の作品、つまり『メカクシティアクターズ』は、きちんと読み込めば、追いかければ、いずれ真実に辿り着ける。『メカクシティアクターズ』に嘘は無いという点で、誠実さにおいては浅野いにおを上回る。問題は、その辿り着いた真実がどこまでも「設定」でしかないことにある。
私の好きなアニメ『魔法少女まどかマギカ』なども、繰りかえし視聴すると、「あ、この演出は・この描写はそういうことだったのね」と気づくことが多々ある。そしてそのとき、私はとても切なくなる。「このときほむらは何て考えていたんだろう」「このとき杏子は何て考えていたんだろう」と思うと、胸が痛くなる。意味ありげに描写していたところに、きちんと意味がある。そこにキャラクターたちの感情や思考が絡まり、視聴者の想像力を刺激する。こういう作品であれば、繰りかえし視聴することには価値がある。「あ、そういうことだったのね」には重大な再発見があるからだ。それは、「設定」というものを超えて、キャラクターの心を、そして視聴している視聴者自身の心を再度見つめ直させてくれる。『魔法少女まどかマギカ』が伝説のアニメとなり、皆が口々にこのアニメについて語りたがっていたのは、その懐の深さゆえである。私が見る『魔法少女まどかマギカ』とあなたが見る『魔法少女まどかマギカ』は同じ作品であって同じ作品ではない。人それぞれの『魔法少女まどかマギカ』がある。だからこのアニメは凄いのである。
一方、『メカクシティアクターズ』にそれは無い。つまり、私が『メカクシティアクターズ』を何度もループ視聴し、「あ、この演出はそういうことだったのね」と気づいたとしても(それがこの作品のキモであるはずだ)、それは「あ、そういう設定だったのね」と同義なのである。つまり、じんのスタンス「ついて来れる奴だけついて来いよ!」に従い着いて行っても、我々は「設定」にしか辿り着けないのである。「頑張って考察したぞ!う~むなるほど、そういう設定なのか・・・。・・・・・・で?」となるに決まっているのだ。「あ、そういうことだったのね」は一瞬だけではじけて消えてしまう。あまりにも刺激が足りないのである。
であるからして、『メカクシティアクターズ』の火は今消えかかっている。本当に、話数が進むごとに語る人の熱量が減って行く。それは先ほど私が述べたように、「これ、着いて行っても大したもん無いぞ・・・」ということに視聴者が気づいているからに他ならない。じんは、本当にこのような表現方法で満足しているのだろうか?多くの人が「わけわからん」と笑いながら話しているこの現状で?カゲロウプロジェクトはひぐらしのなく頃にを超えるムーブメントになりえるのだろうか?私は淡い期待を持ちながら、『メカクシティアクターズ』を最後まで視聴しようと思う。